佑哉が誕生のころ

 佑哉が生まれたのが、7月30日私たちが結婚して1年半後のことだった。そのころ、北海道の田舎町で自営の写真業を営んでいた。と言っても店は妻に留守番を頼み、商工会青年部の活動やら消防団の活動などに明け暮れ、仕事の時だけ店にいる。そんな新婚時代であり、佑哉が生まれたその日も、消防団の全道大会で、町から400Kmも離れた所で汗?を流していた。でも妻は一人で病院に行き、待望の長男として誕生したのです。
 1ヶ月ほどしたころ、いくら授乳しても泣きやまず、何が原因なのか、親子で泣いたこともあった。原因はオッパイが足りないようで、補助的にミルクを与えるとご機嫌でした。その後は文字通りスクスク順調に育っていった。

佑哉誕生
佑哉が誕生して保育所前のころ 
佑哉が1才のころ

 大きな病気もなく、怪我もなく順調に成長した。家族が増えて最高に幸せなときだった。ちょろちょろ動き回り、はらはらさせられたり伝い歩きから自分で歩けるまで元気に一日騒いでいました。でも、本能的に危険を察知し、回避するのか、怪我・病院とは縁が無く、周りの子供達が病院に行くのに、我が子は親孝行な息子だと感心さえさせられた。
 1才をすぎた頃から、何となく言葉が少ないのが気にかかっていたが、男の子だから遅い子もいるとの周囲の言葉に、そんなに気にしていなかった。下の娘が生まれたのも、佑哉が2才を迎える少し前だったが、そのころまでは順調に成長をしていたように思う。
 娘が生まれてから、俗に嫉妬がおこることもあまりなく、ことさら感心を示すこともあまりなかったが、顔をのぞき込んだり、気にしている様子は見受けられたので障害などとはまるで考えていなかった。
 2才すぎた頃、児童相談所の巡回訪問があり言葉が少ないことを話したら、一度心配なら調べたらと助言を受け、帯広の児童相談所に行った。その結果、診察したり、脳波を調べたりいっさい無く、自閉症候群のレッテルを張られた。親も友人も、自閉症の言葉も知らず、どんな病気なのかどうしてそうなったのか本を読みあさり、なんでこんな元気な子がとの気持ちでいっぱいだった。
 「目の前が真っ暗になる」というのはこんなことだったのかと初めて解った気がし、それまで順調すぎた人生だっただけに、どうしたらいいのかすべてが否定されたようなショックを受けた。妻と話し合い私たちに与えられた試練を受けようではないか。そして佑哉がこの世の生を受け、佑哉の使命があるのならその手助けをしよう。そんな結論に達した。

 そのころ、本屋さんで立ち読みした自閉症を書いた本の中にこんな言葉があった。

「自閉症の子供を持った親は、
その子の一生を自閉症と
その子の為に捧げる覚悟が必要だ」

 

そんなことを書いた本があった。その時はなにかしら無性に腹が立ち、それ以上は読まなかったが、後になって考えるとそれが出発のためのはなむけの言葉だったかもしれない。この言葉を理解し、挑戦できる限られた家族に対しての神様からの贈り物だったら....  
 私たちはこの言葉に対し、不快感を感じた以上にこの社会の子供達を、差別と偏見で見る根元があると思われます。子供はみな同じであり、多少の出来の良さ・悪さは人間の許容範囲に収まるものであるから!
 学校でのテストの善し悪しでその人を測るのではなく、その子が生を受けたのは、この時代に必要であるから生きているのだと。 

保育所のはなし

 人口4000人弱の町で、無理なことだったのかもしれない。しかし、その無理を承知で佑哉の為を思いおとなしい私の挑戦が始まった。
 この町は幼稚園がなく、町営の保育所があるのみです。入所年齢に達しても町から何の連絡・打診もなかった。同級生の子供達には案内が来ているのに。しびれを切らして役場に入所できるのか話を聞きたくて、当時の民生課長をたずねた。
 お役所言葉で「検討します」との返答を得たが、その後もまるで連絡がない。入所式が終わってもまだ返答がこない。ある日だめならだめと言ってほしくて再度役所に足を運んで、民生課長の席を見ると勤務時間にも関わらず、大きく新聞を開いて暇そうに欠伸をしていた。
 人のこととなるとかなりの交渉能力はあると自負していたが、いざ自分のことになるとなかなか言いだしにくい性格で、バンジージャンプから飛び降りる覚悟で切り出したが、返答は依然変化がない。もうこれ以上民生課長と話しても、何も進まないことを感じ、町長室までアポなし面会。それでも奥歯にものの詰まった返答しか返ってこなかった。
 やはり、自閉症の意味も性質も知らない「福祉の町」の看板を掲げているだけの小さな町には理解されないのも無理はないのだろうか?結局、予算がつかないとの返答で、妻と佑哉は次の4月まで毎週3日120Km離れた帯広の障害児を教育する保育園と自閉症治療の訓練に車での通園となった。
 一年遅れでも何とか地元の保育をと思い再度交渉したが、進展しなかった。それならばと自費で保母付き通所を一年間経験させることができ、次の年はやっと官費保育を一年間体験させることができた。その後は、障害者専従に保母枠が増やされたのは言うまでもない。佑哉にとって良かったか疑問は残るが、このころから多動で、目を離せなかった時期だけにいくらお客様的扱いでも、子供社会のルールが少しは身に付いたと思います。

保育所そのとき佑哉は


帯広の保育所時代

 三年弱の保育所生活の様子を振り返ってみると、大好きな車に乗れることだけを楽しみに、つれられていった様子です。行き帰り往復4時間の交通標識や、看板の電話番号に興味があり、その場所にさしかかると必ず電話番号を読み上げさせられていました。
「***−****うん」 と佑哉が言い、受話器を差し出す仕草をします。それに答えて○○○です。と言うと納得しますが、見落としたり言えなかった時は正解がでるまで、何回も繰り返していました。家に帰ってからも電話帳を離さず、文字通り穴があくまで繰り返しながめていた。

元気に保育所
帯広の病院は

 とにかく保育所はまだしも、病院が嫌いで困った。何のことはなくただ室内でじっと遊んでいるのがつらかったらしく、外にでられるか帰りの車に乗ることを心待ちしていたようだ。病院に向かう道路にさしかかるとなぜか不機嫌になり、帯広の街は飴と鞭の思い出が残っている様子。
 このころから親と離れる恐怖がだんだん出始め、常に顔の見える範囲での行動に変わった。先生に連れられ親から離された後は、親の手を絶対に離さず「帰ろう・帰ろう」と手を引っ張り、外にでようとしていた。

町営保育所珍客

 やっと念願の保育所に遊びに行けることになり、親の苦労も半減した。それでも保育所からの通信ノートには、毎日きまって各クラスを訪問し、落ち着かないのか好奇心旺盛というか佑哉の冒険の連続だった。
 親が一番驚いたのが、ある朝(休日だったと思う)起きると佑哉がいない!いつも行く旅館の自動ドアやスタンドのタンクローリーにもいない。朝5時ごろから明るくなったので、鍵を開けて親の寝ている間に家出を試みた様子。気が付いて2時間ほど町内の行きそうなところを探したが、狭い町なのに見つからない。
 町内のみんなが起きだした頃ある人から電話があり、やっと見つかったが、大きな道路を越え、線路も越え、2.5Kmも一人旅をしていた。何事もなかったから良いものだが、あの時ほど冷や汗をかいたことはなかった。小さな町はどこに行っても知り合いばかりで、皆様に大変お世話になりました。その後佑哉にも開けられない秘密の鍵があっちこっちに付いたのは言うまでもない。

そのころの佑哉と妹の様子
そのころの佑哉と妹の様子

 ドライブしても車の中で寝ていることはまったくなかった。運転している親が眠たくても一人目をあけて流れゆく景色と道路際の看板を目で追っていた。甘えっ子で常に誰かそばにいたこともあって、所定の位置は膝の上。何か自分で思い立ったことは大人の手を引っ張り、目的を達成する。
 大人は佑哉の道具であり、座布団であったのかもしれない。何かほしくても駄々をこねることもなく、人のものにはあまり執着するほうではない。まして他人に危害を加えることは、全くなく。

 「天真爛漫自分の生きる道を貫いている」私の目から見るとそのようにしか映らない。でも、社会のルールでは?

 妹もそんな佑哉の後ろをひたすら追いかけ、他人の目には仲の良い兄妹にしか見えなかった。妹は年齢以上にしっかりしていて、佑哉が保育所に行っている間は忙しい両親に替わって、近所のおじいちゃん・おばあちゃんを相手に廻らない口でおしゃべりを楽しんでいた。
 佑哉の趣味はカセットレコーダー・ビデオなどが好き。親が教えたことが無いのにいつの間にか操作を覚え、自分のものにしている。テレビ・ラジオなど電気製品ならどんなものでもいつの間にか操作している。そんな佑哉の一番の楽しみは、ブランコ。あまりに好きなので小さな庭に手作りのブランコまで作らせたほど。ブランコが一回転するのではないかと心配するほど大きく揺れる。親は怪我を心配するが、佑哉は天性の運の強さか一度も落ちたことはない。

小学校入学前のころ

 保育所も卒園の時期が迫り、周りの同級生達はランドセル、入学の準備の話が聞こえてくる。この町では新年の町内広報に、「おめでとう新入学生」と題してその年に小学校に入学をする生徒の名簿を発表する。佑哉の名前を探すがやはり見つからない。35名程度しかいないのだが、やはりふつう小学校に入学できないのだろうか?予想はしていたが、親として悲しいものがあった。
 保育所の入所でごり押しをしてしまったので、もう役場に頼みに行きにくい。いろいろ調べてみると、特殊学級はあるが、障害児教育とはほど遠く普通小学校に入学しても、その後、養護学校に編入した子もいるように聞く。いろいろ考えた結果、帯広養護学校を紹介してもらい、片道120Kmもある距離なので通学は最初から無理。小学校1年生から、寮にお世話になることにした。
 でも、今まで親の元から離れたことのない佑哉が果たして一人で寮生活などできるのだろうか?かといって家から通学でき、受け入れてもらえる学校は無いし、義務教育は受けさせなければ親の責任でもあるし、悩みに悩み抜いた。
 入学が決まっても、本当にこれでいいのか佑哉には判断はできない。親のエゴなのか。家族そろってあまり悩んだ顔は極力さけ、いつもの笑顔を生来の「なんとかなるさ」精神を通したが、やはり不安だった。極力平静を装いながら...

佑哉入学のころ

そのころ佑哉は

 親の悩みが解っているのか、佑哉はそんなこと気にせずいつもの通り。テレビのコマーシャルが好きで、熱心にコマーシャルになるとテレビの前。だんだんそのコマーシャルも好き嫌いがでてきて、嫌いなコマーシャルがテレビから流れると、切ってしまう。好きなコマーシャルだとニコニコしながら見ている。その傾向を観察すると、どうもBGMが関係しているようだ。
 この頃からおとなしいなと思ったら、一生懸命数字を書いている。逆さまの数字を書いたり、解読するにはすこし慣れが必要だが。英語のスペルもいつの間にか覚え、「エヌエーティアイオーエヌエーエル」・「エスオーネヌワイ」とか言って、何?と聞いてくる。親も非学で最初は何を言い出したのか解らずにいたが、書いてみるとそれが社名であることがわかった。その後いろいろな会社名をスペルで言うので、考え理解するのに親が困ったほど。
 近所の人たちも「佑哉英語話せる」と評判になった。しかし、これだけ学習能力があるのだから、周りがなにか教えようとすると、とたんに耳を両手でふさいで、拒否の反応を示す。これまで、佑哉が書き・話すことはすべて独学によるものである。
 音楽にも非常に興味を抱いており、聞き分ける能力は高い。保育所での一番のお気に入りは、音楽の時間であったことは言うまでもないが、先生がいつのも曲をオルガンで弾くが、少しでも間違えると「間違った」と指摘するほど。朝のいつもの曲が都合で弾けなかったり、違う曲を弾かれるといつもの曲が弾かれるまで、泣きやまず先生を困らせたり、こだわりがいつまでも続いた。