佑哉帯広養護学校のころ

 あまりにも早い一人暮らしだった。お互い涙がでるのをこらえながら取りすがる佑哉を無視した。入学の日は、先生が子供たちを親から引き離したちょっとの間に別れた。それからお迎えの日までの長かったこと。私が迎えに行くと、走り寄ってくる。そして親であることの確認をさせられるのである。「***−****」とか「エヌエーティアイオーエヌエーエル」とかその暗号に答えなければ親ではない。そんな気持ちを込めて。寮や学校ではそんな暗号は理解されなかったのだろうか。それとも先生と親を区別しているのだろうか。
 授業参観日があって授業中にも関わらず、親の顔を見つけるとすぐ手を引っ張って車に乗ろうとする。ただ帰りたいだけの帯広養護学校でもあった。佑哉の一番嫌いな授業中にじっと授業を受けることが佑哉にとって苦痛のなにものでもなかったのだろう。まして教室という檻に入れられるのが。
 それでは社会のルールにあてはまらないのは解っているが、常に自分の気にあったこと、興味のあるものは何時間でも黙々と集中している。その集中を役立つものにし向けられない周りの悲しさもあるが。
 寮生活はある意味では佑哉に適合していたのかもしれない。好き嫌いのあった食べ物も無くなり、家で野菜を食べたのは珍しかったが、帯広養護で食べられるようになった。時間の感覚も覚え、規則正しい生活は佑哉にとって受け入れられるには早かった。こだわりが生きたのだろう。

帯広養護学校のころ

 帯広養護の先生方には大変お世話になったし、かわいがってもいただいた。
時には厳しく、時には優しく佑哉にとって思い出深い地になっている。学校は勉強するもの、家は自由があるものそんな区別を佑哉自身がしている。いくら家で何か教えようとしても、拒否の反応しか返ってこないのに、学校ではいろいろなルール、行動を素直に学び取る姿勢がでてきた。
 ある日、佑哉が棒や手で音を作っているので、これはと思い電子的な音ではあるが、ドラムの音がでる楽器を買い与えたが、みごと振られた。佑哉のお気に召さなかった様子である。でもデパートなどの楽器売場にある電子ピアノや電子的な音のでる楽器は好きらしく。特に自動で演奏する電子ピアノには熱心であった。
 家に帰ってきてから、クラスの友達の名前を次々に言っていたり、先生(特に気に入っている)の名前など、ときどき思い出したように言っていた。今までは我関せずをきめこんでいた佑哉にクラスの仲間意識が芽生え、みんなで何かを取り組む姿勢ができてきたのだろうか。運動会でも学芸会でも親の顔を見つけると飛んできたが、先生になだめられながらも集団行動ができるようになった。
 親の都合で帯広養護学校は4年間お世話になった。バブルがはじけ始めた頃、事業が思うように行かなくなり、佑哉のこと家族のことなど考え、もっと大きな都市で佑哉の可能性を引き出したく札幌に居を移した。

星置養護学校の佑哉

 星置養護学校までは車で30分ほどのところにあるが、寮生活の習慣をなくさない為にも入寮させることにした。驚いたことに帯広養護学校と同じ造り、全く同じ配置であったことである。すぐに環境に慣れる下地はあった。
 それと札幌では近くの児童が多く、入寮する児童が少なかったことで、佑哉も伸び伸び生活をエンジョイできた。
 佑哉もこの学校が気に入ったのか、成長したのか家に帰りたくなる行動はなくなった。授業参観で親を見つけても帰ろうとすることはなく、帰宅の日でも催促をしないと帰り支度をせず、好きなことに熱中している。
 親から見た目では、あまりにも伸び伸びしすぎている印象を受けた。この頃から音楽(演奏ではなく)の興味が強くなり、カセットレコーダー・楽譜には特に熱心だった。夏休み・冬休みも朝から楽譜の製作(楽譜のコピーに裏から紙を貼り、厚くして収集している。その楽譜は自分で題名を書き自分の名前を書き、大事なものとして持っていた。
 ジャンルは童謡で、歌詞を何回も書いては貼り、切っては貼り童謡の厚い本を買って与えたが、いつのまにか一冊丸ごとコピーをし、楽譜をつくりあげた。

星置養護学校の佑哉

 札幌での生活は最初はとまどいを感じた。この札幌で佑哉が家を飛び出したらどうしようと玄関のドアには二重三重の鍵を取り付けたり、絶えずだれか見守っていたり、心配はつきなかったが、どういうわけか、それが取り越し苦労だと解るまで時間はかからなかった。まるで一人で家から出ることもなく、どこかに行きたいときには、コピーとかバスとか糊だとか親に向かって言葉で命令をする。
 手を引っ張って目的を達成していたことが、札幌という都会では知らない人が多く、それもかなわないことだと感じたのだろうか。
 物わかりは年齢とともによくなってきている。買い物に出かけても、今日はこれとこれを買うと言っておくだけでその他のものには目もくれず帰ってきてしまう。親がウインドショッピングを楽しもうとしても佑哉が許さない。でも、冬休みが始まり正月が近づくと実家の地名を連呼し、行かないとすまない状況にある。持っていく荷物も何日か前から引っぱり出し、早く準備をするよう催促をする。
 夏休みも同じだ。行動パターンが変わるのを嫌っているのだが、言い聞かせることにより、納得するようになった。

このサイトを立ち上げたころ

 佑哉は受験生。2月5日に受験。札幌から120Km離れた高等養護学校を受験する。見学には行っているが、よほどなれないかぎり知らない先生の質問に答えることはできない。一番の苦手は会話であり、人とのコミニュケーションである。
 試験は佑哉の気分が乗らないと合格は難しいと思う。初めて親も佑哉も体験する試練である。この試験に合格できなければ、どこかの高等養護学校には入れると思うが、まだまだ遠い地に行くことになる。確かに義務教育は9年と決まってはいるが、障害をもつ子供は9年では自立できない。
 軽度の障害と重度の障害では、教育も重度の方が長い年数を要するはずだ。普通児が9年・高校3年・大学4年と教育を受けるのだとしたら、障害児はその倍以上でも公平を欠くことはない。障害者教育に試験でふるいをかけるのは、重度の障害を持つ子供にとっては、教育はいらないと判断されるようなものである。
 障害児はどんな子供でもある程度の職業と社会にでて自立するまで、義務教育の延長を考える時代ではないのか。無駄金を湯水のごとく使っている日本の政治を動かしてるみなさん。
 それを知ってか知らずか本人は至って呑気。今日も童謡と演歌に耳をかたむけている。

このサイトを皆様へ

 佑哉がこれからどんな人生になるか、誰にも想像はできないであろう。しかし、今親として佑哉やその仲間に対し言えることは、「自由にその使命を着実に果たしてほしい」と。それぞれが別々の使命なのか同じ使命を持っているのか解らないが、君たちが創り上げる社会は確実に住み良い社会となるだろうし、またそうしなければならない。
 まだこの社会には汚職だとか、不正が蔓延している社会であるが、欲が突っ張ると障害児より手の着けられない使命を忘れた人間であることに間違いはない。そんな人間になるなら、今のままでずっといてくれた方が幸せである。
 
 同じ試練を与えられた多くのみなさま、これからもこの子たちの住みやすい社会を創るため、お互いの人生の少しを協力してあげようではありませんか。焦らず、やけにならず、広い心を自分自身が持つために!
 
 最後まで読んでくださってありがとうございました。感想だとか、意見がありましたらメールをお待ちしております。どんなことでも結構です。

今後の佑哉は、気が向けばUPしていきたいと思っていますが、怠け者のおやじです。気長におまちください。また、いつの日か!!

佑哉くん春から高校生に

 1997年2月5日 高等養護学校を受検してきました
みなさんはお気付きでしょうか?一般の高校受験と佑哉の受検の意味を!
 私のインプットミスではないかとお思いだった方もいらっしゃるのではなかったかな?でも違うんです。キーボードがらjukennと入力すると「受験」と変換されますね。でも私の(佑哉の)受検は受検なんです。
 受験とは「試験を受けること」と辞書にありますが、佑哉の受検は、高等養護学校の生活に耐えうるか否かの検査をすることなのです。
 前置きが長くなりましたが、

 高等養護学校は佑哉を受け入れて下さいました。

受検に行った高等養護学校ではなく、2次志望の高等養護学校に。

佑哉くん春から高校生に

 佑哉は4月から帯広の近くの高等養護学校に入る許可を得ました。
そうです。小学校1年生〜4年生まで一緒に生活した帯広養護学校の同級生が進学する高等養護学校です。
 これから3年間は、毎月札幌から約300Kmのドライブが始まります。夏は快適な峠越えも、冬の峠越え(北海道でも有数の危険な峠でこの峠を避けるドライバーは多い)は、どうなるだろうか今から心配していますが。
 小学校時代の恩師の先生(佑哉の大好きな先生)がこの高等養護学校に転勤したらしいのですが、まだいらっしゃるのですか?
 これから3年間、日高山脈の麓の高等養護学校でがんばります。学校も先生も職員のみなさまもどうかよろしくお願いいたします。

 今年の高等養護学校受検の特徴は、札幌近郊の学校に申請が殺到し、札幌近くの高等養護学校の重度の子供たちが受検する学級は軒並み競争率150%以上で、とても狭き門でした。1次志望・2次志望とも札幌近郊を選んだ受検生は、遠く離れた学校で定員に満たない学校しか選択できないことになります。飛行機を使った送り迎え、電車・バスで5〜7時間もかかるところに入学する生徒もいますし、高等養護学校をあきらめざるを得ない生徒もいます。親のみなさん声をそろえて心配することがあります。それは、近くの学校にいると病気をしても怪我をしても、すぐに様子を見に行くことができますが、離れているとそれもかなわないことです。とくに体の弱い障害児と生活している親御さんはその心配も並の心配ではないのです。学校の近くに転居を考えている親御さんも実際にいるくらいですから...

 まだまだ人口密度に比例しての養護学校施設が不足していることが、受検の壁であり、障害児の受検そのものの制度に問題があるように思います。来年度には養護学校に新設の高等養護学校が併設になると聞いていますが、卒業生全員が進学できる定員にはほど遠いのが現状です。

 佑哉が小学校に入学した時点では、佑哉が高等養護学校に入学できるとはとても思いもよらないことで、ここ数年の間に高等養護学校にも重度の子供たちを受け入れてもらえる環境が整いつつあります。
それらはみな先輩諸氏の努力のたまものだと思いますが、まだまだこの子たちの生きる環境ではありません。これからは私たちがもっともっとすべての障害をもつ子供たちが、自立するまで教育を受ける環境を充実させなければなりませんし、障害児こそ教育が必要だということを声を大にして言わなければ、これから生を受ける障害者も同じ苦労を強いられることになります。

 障害児の教育に携わる先生は、みな一様に受検されたみなさん全員を引き受けたい。何とか面倒を見てあげたいと言います。でも定員枠という行政の決めごとがありかなわないのが現実であり残念だとも。一方、学校に入学してしまうとなかなか親御さんが参観に来ないとも。親は年々老齢に近づきますし、まして遠くに離れてしまうと行きたい気持ちを押さえなければならない矛盾。民話に「姥捨て山」というのがありました。今の障害児政策がこうではないことを...

高等学校受験

 みなさまの心温まるご助言とてもうれしく聞かせていただきました。カツ丼もいっぱい食べましたし、ちくわも!
前々日から明日は高等養護学校へ行くよと申し渡してあったせいか、前日はいつもより早めの就寝。当日もいつになく早起き。行くよと声をかけると支度を始めた佑哉。
 前日札幌は雪が降り、路面はツルツル。大事をとって早めの出発。車の中はやはり緊張顔。札幌から出ると空はピーカン路面状態は絶好調。この調子で検査もパスしてくれたらいいなと親。予定時間は10時受付開始。30分も前に学校の駐車場に到着。
 到着するともう気持ちは学校の中。早く入りたくてじたばた。なだめながら15分前に入校。受付前なので、控え室で待つ。(教室)さっそく音楽のファイルを見つけて上機嫌。ほかの子供たちはみんな大人だ。おとなしい。大きな声で喜びの声を出しながら時間を待つ。
 受付が始まって、校長先生の前で、名前を聞かれ元気?に「おぎゆうやくんです。」誰ときたの?「...」はらはらしながらやっと受付を終了。次の控え室は大好きな音楽室。さっそく準備室の探検に!取り押さえられてちょっとがっかり。校長先生の挨拶の間も声は出るし、席を立とうとするし、押さえる父必死。
 やがて検査が始まり、受検生は親と別れて別室へ。戻ってこないかどきどき・はらはら。親もそろって面接。いろいろ聞かれて緊張する。

 検査が終り、同じ受検生は帰ってきたが、我が佑哉帰ってこない。先生から「佑哉くんはみんなとそろってできなかったことがあるので、残って検査を受けてます」。親、冷や汗。(’’);
 なんとか終了。ここの学校の先生はすごい。佑哉を初対面でもなんとか検査をしてくれた。なんとここの競争率は。はっきりは教えてもらえなかったが、1.5倍ぐらいかな?
 まあ、やるだけのことはやったつもりだが、あとは運を天にまかせて2月18日を待つばかり。同じ受検生の中では一番目立っていたし、大きな声も出していたし、ほかの生徒から「うるさいよ」って言われたし、さんざんな受検でした。
 佑哉の佑哉らしさが十分発揮された一日でした。 おわり

 PS 帰りの車の中はるんるん。歌まで飛び出し、リラックス。